安倍公房の「砂の夫人」を読んだテクスチャを書きます。

安倍公房の作品にたびたび登場する事例に何か個性にとって注視を失うというものがあります。そして、その何かを失ったヒロインの心情がだんだんと変化していく流儀がおかしいと思っているのですが、今回のそういった「砂の女子」では、厳密にいえば何かを失ったわけではないのですが、失っている。簡単に説明すると、ヒロインが昆虫キャプチャーに訪れた砂に囲まれた村落に宿泊するのですが、そのヒロインがその宿に押し込められてしまい、在宅に帰れなくなるというお送りなのですが、そのぶち込められた宿の中に独りの女子がいるのですが、その女子って日々を過ごす中で、ヒロインの心にだんだん乱調が生まれていきます。安倍文学の認識はわりと不思議な主題を扱ってはいるものの、そこには一貫した個人マイナスや回復といった考え方が存在しており、そこに会員が自身を投影するのが読んでいる中での楽しみでもあります。とにかくボクが印象的であった見晴らしとしては、クライマックスものののですが、旦那が砂に囲まれた家で脱出できない生活に専用し、むしろ砂の外の風土よりも砂に囲まれて独りの女とともに暮らしをするほうがさわやかのではないかということを考え定める周りです。ここにボクは個性において幸せは何かということを強く考えてしまいました。世の中にはあらゆるものがあり、あらゆる第三者がいる。その中であらゆる選択において、自分の好きなように生きていくことが幸せであると一般的には考えられ傾向ですが、その中で、失われていく自身であったり、どうしても心から通じ合える他人のポストの不備などから、ひょっとしたらそんな世界で漂うことはとにかく不幸なのではないかという持ち味から、一層どこにも行けない、何も選べない、でもしみじみ信頼できる第三者が一人だけそばに増えるといったときのほうがむしろ幸せなのではないかもしれないと思わせて取れる。個性は情報に囲まれて生きていますが、その情報にて過度に不幸を感じてしまいがちにもなりますが、だったらやっぱり反対の世界のほうが幸せなのかもしれないと考えさせて頂ける作品だとボクは思います。クリアハーブミストで頭皮の臭いがとれる?